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続・幕末の京都、龍馬縁の地を訪ねて (2010年05月29日)

禁裏を囲む宮家邸跡 (京都御苑 )
中山邸跡(明治天皇生誕の地) (御所北東朔平門より東)
中山忠能卿の旧邸跡。1852(嘉永5)年9月、後、1867(慶應3)年に即位される第122代明治天皇が、父孝明天皇、母は権大納言中山忠能の娘藤原慶子の間で孝明天皇の第2皇子として降誕。孝明天皇が祐宮(さちのみや)と命名されます。1856(安政3)年まで4年間ここで生育された所(母の実家)です。邸跡内に孝明天皇が明治天皇の宮号に因んで「祐ノ井」と命名された井戸があります。
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橋本家跡(皇女和宮生誕の地) (御所東側)
1846(弘化3)年5月御所の東に隣接する橋本邸において仁孝天皇の第八皇女として誕生。 母は典侍橋本経子(観行院)。孝明天皇の異母妹。父親仁孝天皇は和宮の誕生に先立つ1月に崩御。和宮は勅命により橋本邸で養育されます。1851(嘉永4)年孝明天皇の命により有栖川宮熾仁親王と婚約。しかし1858(安政5)年6月幕府が勅許を得ずに日米修好通商条約を調印したことで孝明天皇は攘夷を幕府に命じるため内勅を水戸藩に遣わします。これに対して幕府大老井伊直弼は尊皇攘夷派の志士や大名公家への苛烈な弾圧「安政の大獄」を起します。政情不安定の中、孝明天皇は公武合体策を打出し、朝幕関係の修復を行おうとします。その一環として幕府第14代将軍徳川家茂の御台所として皇女の降嫁が決まります。皇女が武家に降嫁し、関東下向したのは和宮唯一人とか。
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学習院跡(御所東南側建春門東北100mあたり)
学習院は、第115代桜町天皇の皇后、妃桃園天皇の御母(藤原定子)の御殿であった御所開明門院の地に、仁孝天皇の御遺志にで公家の風儀の乱れを正し、再教育を施すために、1842(天保13)年に学習所として設立。1849(嘉永2)年に孝明天皇から「学習院」の勅額を下賜されます。1862(文久2)年頃、幕府に対して朝廷の勢力影響力が大きくなった頃には、尊王攘夷派の志士が学習院御用掛とか、出仕に選ばるとか、薩長土の公武周旋の旨を命ずるなど、学習院が維新のための道具に使われています。この御所の学習院は1870(明治3)年に廃校。後の1877(明治10)年華族の子弟教育のため新しい学習院が東京に創立されます。
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桂宮亭跡(御苑今出川門より南50m程 東側)
1861(文久1)年10月幕府第14代将軍徳川家茂に降嫁の和宮は、仮御殿の桂宮邸を出発し、中山道経由で江戸へ下向します。桂宮邸は今出川御門南にあり、和宮は2年近く住んでいます。1896(明治26)年頃、邸宅は二条城の本丸御殿として移築されたとのことです。
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by fushimi_no_occhan | 2010-05-29 23:50


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