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続・幕末の京都、龍馬縁の地を訪ねて (2010年05月26日)

蛤御門
京都御所の周囲の九ヶ所の門の一つ。烏丸通に面して西向き、下長者町通と上長者町通の中間辺りに、従来の正式名称は新在家御門という名で呼ばれる「開かずの門」でしたが、1788(天明8)年の「天明の大火」の時に初めて扉が開かれ、あたかも火に掛けられて口を開く蛤の様だという事で「蛤御門」と呼ばれるようになった高麗門型筋鉄門です。1864(元治1)年に起こった「禁門の変」では最大の激戦地となったことから、この事変を「蛤御門の変」とも言われます。当時、この門は、現在の位置より御所内に凹むように東寄りにあり、鍵型になった塀に沿って南向きに建っていました。現在でも門柱には、当時長州兵の発砲による弾痕が残っています。
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「蛤御門の変(禁門の変)」
1864(元治1)年6月15日、前年の「八・一八の政変」で禁裏の守備を解かれ退京を命じられた長州藩は、藩主父子の赦免などを求めて京へ軍事進攻をかけるべく国元を出兵、6月末には京都近郊の伏見、山崎、天龍寺の3ヶ所に布陣し、軍事力をバックに朝廷への陳情を働きかけます。しかし、朝廷はこれを拒否し、退京を命じ、ついには追討令が出されかねない形勢に陥ります。追いつめられた長州兵は、7月17日に石清水八幡宮で軍議 を開い て決戦の方針を定め、19日未明決起します。作戦は京都の郊外3ヶ所の陣から一斉に御所を目指し進攻、禁裏へ突入、天皇の身柄を確保、長州へ御動座願うという計画でした。これに対して幕府軍は、会津、薩摩藩を中心に諸藩の兵力を合わせて数万の兵で御所一帯の守備を固めていました。戦いはまず伏見方面で始まります。伏見長州藩邸から出陣した福原越後が率いる兵と幕府軍大垣藩が筋違橋付近(稲荷大社付近)で衝突。長州兵は劣勢となり、藩邸へ後退します。一方、天龍寺に布陣していた国司信濃の兵が、途中幕府軍の迎撃も無く京の街への進軍に成功し、御所へと迫り、中立売御門、蛤御門、下立売御門の三ヵ所から攻撃を仕掛けます。戦端は中立売御門で始まり、ここを守備していた幕府軍黒田藩と一橋兵は、長州兵に発砲します。長州兵は、「御所から発砲があった。もはや御所とて遠慮は要らぬ。撃て!」と攻撃を開始。黒田藩兵は戦わずして退却。残った一橋兵も長州勢の攻勢を支えきれず、一条通方面へ退却。長州勢は優勢となり、中立売御門から御門内へと突入、日野邸を通って唐門の前に進軍。ここで会津兵と対峙。会津兵も次第に押され後退、ついに長州兵は日野邸に突入します。この時、幕府軍会津兵を指揮していたのは、病身の会津藩主松平容保に代わって、禁裏御守衛総督の一橋慶喜でした。松平容保には公家達の動揺を抑えるため常御殿に詰めさせていました。一橋慶喜は自ら会津兵に直接下知し、自軍一橋兵と共に長州兵に対峙させています。このとき、来島又兵衛が率いる長州兵が蛤御門を突破し御所内へ突入します。同時に下立売御門からも突入し、戦況は長州勢が極めて優勢となり、天皇の御座所を目指してさらに進攻を開始します。この戦況を変えたのが、藩邸で待機していた西郷隆盛率いる薩摩兵で、御所の戦況の急変を聞き、御所へ急行、乾御門から御所へに突入するや直ちに長州兵へ総攻撃を掛けます。薩摩藩鉄砲隊は来島又兵衛を発見するやいなや狙撃に成功。この時から形勢は逆転、長州兵は指揮官を失ない総崩れとなり、敗走。蛤御門の長州兵が敗走した直後に、最後に山崎から進軍した益田右衛門介の率いる長州兵が堺町御門に到着するも、御所は既に幕府軍が集結し占拠し、益田右衛門介は、やむなく堺町御門の鷹司邸屋敷に潜り込み、幕府軍と対峙します。この隊にいた久坂玄瑞は、前太政大臣鷹司政通に嘆願し御所へ参内する供に加えるよう要求しますが、政通はこれを拒否。幕府軍に包囲され絶望的な戦況の中で、久坂玄瑞は寺島忠三郎と差し違えて絶命します。さらに、事の顛末を国元へ報告すべく屋敷を脱出しようとした入江九一は、門前で幕府兵に刺殺されます。この戦闘で幕府軍は辛うじて勝利し、幕府軍総指揮官一橋慶喜は、鷹司邸を焼き払うように命じます。この火が京都の町に類延焼し、三日間三晩燃え続け、市内の大半が焼け落ち、実に3万軒弱もの家屋や多くの社寺が焼失ています。これは1788(天明8)年の「天明の大火」に次ぐ被害を出し、「どんどん焼け」と呼ばれる大火となっています。御所から撤退した長州兵は暫時国元へ向けて落ち延びますが、真木和泉ら17名の兵は天王山に立てこもり反撃の機を覗っていましたが、追討を受け自害しています。7月21日孝明天皇は「蛤御門の変」に対し、長州追討の勅命を発しました。この結果、長州は朝敵となり、「第一次、第二次長州征討」へと時は進んでいきます。
by fushimi_no_occhan | 2010-05-26 10:11


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