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続・幕末の京都、龍馬縁の地を訪ねて (2010年05月23日)

本間精一郎遭難之地(中京区木屋町通四条上ル東側)
越後国寺泊(現在 新潟県長岡市)出身。尊皇攘夷の思想を持ち、その中でも急進派として知られています。江戸に出て清河八郎らから修学し、京都では薩摩や土佐出身の志士たちに尊皇攘夷や倒幕の必要性を説くも、酒癖悪く志士らの反感を買い、逆に1862(文久2)年8月20日に先斗町近くで同志の凶刃に倒れることになります。享年28歳。犯行は土佐藩士岡田以蔵(人切りの以蔵と)言われています。遭難の場所、中京区木屋町通四条上ル、歓楽街のど真ん中にそのことを示す「本間精一郎遭難之地」と刻んだ碑があります。維新後新政府からは従五位の官位が贈られています。
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吉村寅太郎寓居址(中京区木屋町通三条上ル東側)
幕末の土佐藩士。武市半平太率いる土佐勤王党に加盟。後に脱藩し浪士蜂起計画(伏見義挙)に参加。寺田屋事件で捕縛されて土佐に送還、投獄。赦免後再び京都へ。孝明天皇の大和行幸の先駆けとなるべく中山忠光、藤本鉄石らと天誅組を組織、大和国で倒幕の挙兵をするも、「八・十八の政変」で尊皇攘夷派が弾圧され大和国吉野で敗死します。享年26歳。中京区木屋町通三条上ル東側の「武市瑞山(武市半平太(月形半平太))寓居之跡」の碑の直ぐ隣に「吉村寅太郎寓居の跡」を示す碑があります(碑のあるお店はそれぞれ別です)。
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維新史跡 池田屋騒動址(中京区三条通木屋町西入北側)
1863(文久3)年8月18日の「八・一八の政変」後、京都では公武合体派が勢力を伸ばし尊王攘夷派の弾圧が行われていました。一方、長州、土佐、肥後などの各藩尊攘派志士らは勢力回復の策を模索していました。1864(元治1)年5月、将軍徳川家茂が、江戸に戻る一方、島津久光、松平慶永らもそれぞれ国元へ戻ります。そこで京都の警備が手薄となるため、京都守護職は新撰組に市内の警備の任に当たらせています。勢力回復の機会を狙っていた長州藩他の尊攘派志士らは、祇園祭の前の風の強い日に京都御所と中川宮邸に放火し、その混乱に乗じて、中川宮朝彦親王(後の久邇宮朝彦親王)を幽閉、京都守護職の松平容保らを暗殺、孝明天皇を長州へ連れ去るという計画を謀っています。5月下旬、市内の警備中の新選組は、四条小橋上ル真町で炭薪商を営み枡屋喜右衛門を名乗る古高俊太郎(攘夷派の志士)を逮捕します。新撰組副長土方歳三の拷問による自白から、先の陰謀の全容を把握。さらに新撰組は、長州藩過激派志士らが古高俊太郎の逮捕で、この計画を実行するか、否かの談合を池田屋か四国屋で行うという情報を入手。1864(元治1)年6月5日、新撰組は二手に分かれ、土方歳三ら24人は、四国屋付近へ急行、付近を虱潰しに探索、一方の近藤勇(31歳)ら10人は、三条木屋町(三条小橋)の池田屋を包囲。「御用改めである!」、近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助ら4人が屋敷内に突入。池田屋には長州、土佐藩尊攘派志士20人ほどが二階で談合中のところを襲撃、たちまち戦闘になる。沖田総司は、戦闘中に喀血。藤堂平助は額を負傷し戦闘から外れます。その間、四国屋付近を探索中の土方歳三らが、池田屋に駆けつけ戦闘に加わります。尊攘派志士らの一部は屋根伝いに逃走しますが、松下村塾の四天王の1人といわれた吉田稔麿(長州)や宮部鼎蔵(肥後)ら7人が斬殺(「殉難七士」)されています。この事件(騒動)を、後に「池田屋騒動」と呼んでいます。この事件以降、長州藩尊攘派の巻返しとなる「蛤御門の変」などの幕末の騒乱、政情不安が続き、明治維新への転換の時期に大きな影響があったと云われています。新撰組は、京都御所焼き討ち計画を未然に防いだとのことで、京都守護職より労をねぎらわれ、近藤勇には幕府旗本職を任じる旨の打診もあったとか。そして新撰組の名が天下に広く知れ渡るようになります。この事件のあった池田屋はその後、尊攘派志士の溜場であったとのことで主人池田屋惣兵衛は投獄、のち獄死。その後池田屋は廃業、別の経営者が引継ぎ佐々木旅館として長く営業され、当時の建物も現存していましたが、1960(昭和35)年頃取り壊されています。跡地は売却されテナントビルが建ちました。つい最近まではパチンコ屋さんが商いをしていましたが、2009(平成21)年に居酒屋「海鮮茶屋「池田屋」はなの舞」さんのお店が開業しています。現在、池田屋の歴史的遺構は何もありませんが、その店の前に池田屋騒動があった跡である旨の碑があるのみです。
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彦根藩邸跡(中京区木屋町通三条下ル二筋目(山崎橋西詰))
井伊家彦根藩は,数ある譜代大名の中の筆頭格で幕政に深く関与する藩でした。幕末の1858(安政5)年幕府大老になった第13代藩主井伊直弼は、開国、通商を攻め立てる米提督ペリーに抗し切れず、朝廷の勅許を待たず日米修好通商条約に調印します。これに異を唱える、将軍御三家の一つ、水戸藩や尊王攘夷派活動家を取締り、多くの活動家が投獄処刑されるという、世に言う「安政の大獄」を起こします。その結果、井伊大老は、登城途中の桜田門外で、水戸藩脱藩浪士他により暗殺されます。この彦根藩の井伊家京屋敷(彦根藩邸)は、江戸後期に、高瀬川と河原町通の間におかれ、彦根藩の京都連絡事務所として使われていました。1867(慶応3)年の大政奉還の後は譜代筆頭にもかかわらず新政府側に藩論を転向、「鳥羽伏見の戦い」では官軍の後方支援として参戦しています。現在、西木屋町通の山崎橋の北に「彦根藩邸跡」を示す石碑があります。
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稱名寺(寺の裏が龍馬襲撃事件の近江屋と地続き)(中京区裏寺町通蛸薬師下ル裏寺町)
浄土宗のお寺さんです。このお寺さんは幕末の1867(慶応3)年11月の坂本龍馬、中岡慎太郎が、幕府見廻組佐々木只三郎らに襲撃、斬殺の遭難之地(近江屋事件)となった河原町通に面している醤油屋「近江屋」の真裏で地続きになっていて、坂本龍馬が仮寓していた近江屋の裏の土蔵から、稱名寺側に緊急避難出来るように工夫されていたとか。しかし、その当夜は、たまたま母屋二階で中岡慎太郎と話込んでいたために襲撃から逃げられなかったといわれています。
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水戸藩邸跡(上京区下長者町通烏丸西入北側)
幕府御三家の一つ水戸藩京屋敷(水戸藩邸)は,江戸中期頃、この地、護王神社北側付近に設けられ,幕末まで続いています。この地の東側は直ぐに宮家、公家の屋敷、その中央に禁裏があり、一方西側は一丁ほど先が二条城(徳川慶喜が大政奉還をした徳川幕府の京都の居城)という地の利で朝廷の動向の情報収集するのに一役買っていたかもしれません。下長者町通烏丸西入北側に水戸藩邸跡を示す碑がポツンとあります。
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by fushimi_no_occhan | 2010-05-23 23:27


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