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続・幕末の京都、龍馬縁の地を訪ねて (2010年05月31日)

禁裏周辺騒動の跡 (京都御苑 )
清水谷家の椋(来島又兵衛討死の地) (京都御所(禁裏) 南西角)
京都御所(禁裏)の南西角、御所を囲む広い通路のど真ん中にある椋の巨木です。かつてここは公家清水谷家の屋敷があったところ。その屋敷の植栽の椋だけが今に残り、この名が付いています。幕末の1864(元治1)年6月の「蛤御門の変」の時には、長州藩士の来島又兵衛が、西郷隆盛率いる薩摩兵に、この付近で狙撃され討死にします。この時点でそれまで優勢に展開していましたが逆転、長州勢は総崩れとなり、敗走が始まったとされています。
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猿が辻の変(朔平門外の変) (京都御所(禁裏)築地塀東北角)
姉小路公知は、三条実美らの尊攘過激派公卿の一人でしたが、1863(文久3)年4月の摂海巡視の時、勝海舟の影響を大きく受け、海舟の国防論から開国論に論点を転換したと云われています。1863(文久3)年5月、朝廷での朝議からの帰路、姉小路の一行が禁裏北門である朔平門の東、築地塀東北角の「猿が辻」(禁裏の鬼門避け)に差しかかった時、複数の暴漢の襲撃を受け負傷します。姉小路は辛うじて屋敷に辿り着きますが、手当の甲斐もなく絶命。姉小路が応戦のとき奪った刀を検分したところ薩州鍛冶の銘が確認されます。このことから下手人は噂の「薩摩、人斬りの(田中)新兵衛」ではないかと、京都町奉行所で詮議されます。その時、田中新兵衛は、その刀を突き出されると、その刀で自刃し、犯人を突き止めることなく終わるります。この事件で薩摩藩は九門の警備から外され、朝廷への影響力が大きく後退します。この結果、朝廷内の勢力は長州藩一辺倒となりますが、勢力を失った薩摩藩の巻き返しが、後の1863(文久3)年8月の「八・一八の政変」へと時が移っていきます。
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梨木神社(三条邸跡 三條実萬、三條実美を祀る神社) (京都御苑東 清和院御門東側)
京都御苑東 清和院御門東側にあり、萩の名所に一つとされる梨木神社、旧社格は別格官幣社。明治維新に活躍した三條実萬、その子三條実美(尊攘過激派公卿の一人。1863(文久3)年8月の「八・一八の政変」で、他6名の公卿と共に長州へ都落ち(「七卿落ち」)する)を祭神とする神社です。久邇宮朝彦親王の令旨により、三条家の邸宅のあったここ梨木町に三條実萬を祀るための社殿を造営し、1885(明治18)年当地の地名から梨木神社の社号を与え創建された神社です。その後1915(大正4)年大正天皇即位記念事業で、子の三条実美が合祀されています。「染井の水」と呼ばれている境内の井戸は、京都三名水(醒ヶ井・県井・染井)の一つとされ、現在も湧水があるのはここだけです。
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鷹司邸跡(「どんどん焼け」の火元) (京都御苑南 境町御門東側奥)
1854(元治1)年の「蛤御門の変」のの戦闘の中で、国司信濃隊の長州兵が蛤御門から撤退敗走した直後、その時進軍してきた益田右衛門介隊の長州兵が堺町御門に到着。しかし、既に御所は幕府軍が占拠され、益田右衛門介隊は、やむなく堺町御門の鷹司邸屋敷に潜り込み、幕府軍と対峙を余儀なくされます。この隊にいた久坂玄瑞は、前太政大臣鷹司政通に嘆願し御所へ参内する供に加えるよう要求しますが、政通はこれを拒否。幕府軍に包囲され絶望的な戦況の中で、久坂玄瑞は寺島忠三郎と共に自害します。さらに、事の顛末を国元へ報告すべく屋敷を脱出しようとした入江九一は、門前で幕府兵に刺殺されます。この戦闘で幕府軍は辛うじて勝利し、幕府軍総指揮官一橋慶喜は、鷹司邸を焼き払うように命じます。この火が京都の町に飛火し、三日間三晩燃え続け、市内の大半が焼け落ちるという大規模な被害を出した「どんどん焼け」と呼ばれる大火となっています。
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by fushimi_no_occhan | 2010-05-31 15:15

続・幕末の京都、龍馬縁の地を訪ねて (2010年05月30日)

禁裏を囲む宮家邸跡 (京都御苑 )
久邇宮(中川宮 賀陽宮 )朝彦親王邸宅跡(貽範碑) (御苑内下立売御門東側 出水付近)
伏見宮貞敬親王の四男として生を発した久邇宮朝彦親王、1848(嘉永1)年粟田口の青蓮院門跡となり尊融と称しされます。「安政の大獄」に連座、相国寺に蟄居されます。1862(文久2)年に新設された国事掛に就任、1863(文久3)年に還俗され中川宮の称号が与えられます。宮家における公武合体派の中心人物で、1863(文久3)年8月の「八・一八の政変」では過激派公家と長州勢を京都から一掃に成功します。1864(元治1)年には賀陽宮と改称されます。1868(明治1)年反政府運動の嫌疑で広島藩に閑居されますが、1870(明治3)年に京へ復帰、1875(明治8)年新らたに久邇宮家を創立されます。多くの宮家は東京遷都に伴い東京へ転居されましたが、朝彦親王は京都に居残り、のち天命まで伊勢神宮祭主の任に当たられています。
朝彦親王没後40年の1931(昭和6)年に、維新前の邸宅であったこの地に貽範碑が建てられています。
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凝華洞跡(御所の南門 建礼門の南)
建礼門の南に小さな山(土盛り)があり、凝華洞跡の表示があります。凝華洞とは御花畑の別名で、ここに屋敷がありました。京都守護職松平容保は、多忙の為京都守護職屋敷に帰れない時に、宿舎として使用していました。 1864(元治1)年6月「蛤御門の変」では、病を押してこの凝華洞で指揮を執ったとされています。現在、そこには京都市の区民誇りの木に指定されている巨木「凝華洞跡の銀杏」があります。
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閑院宮邸跡(復元) (御苑南西角 敷地内一部 環境省京都御苑管理事務所)
閑院宮家は伏見宮家、桂宮家、有栖川宮家と並ぶ四親王家の一つ。1710(宝永7)年に東山天皇の皇子直仁親王を始祖として創立され、公家町南西部(現在の御所西南角)のこの場所に屋敷を構えられます。創建時の建物は1788(天明8)年の「天明の大火」で焼失、その後再建されていますが、1869(明治2)年の東京遷都で閑院宮が東京へ転居された以降、旧邸は華族会館や裁判所として使用されていましたが1886(明治16)年に宮内省京都支庁として使用されています。戦後の1949(昭和24)年京都御苑が国民公園とり、厚生省(のち環境庁)の京都御苑管理事務所などに使用されていました。しかし老朽化が激しく取壊しが検討されましたが、修復リユースが決定、2006(平成18)年に復元化改修工事が完了。京都御苑の自然と歴史の展示室と庭園として開放されています。敷地内の北側一部に環境省京都御苑管理事務所があります。
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旧有栖川宮邸 (現在 平安女学院大学有栖館(旧京都地方裁判所長官舎))(烏丸下立売角北角)
京都御苑の苑外西、烏丸下立売角北角にあり、2008(平成20)年平安女学院大学が取得し、有栖館としてリユースされている、旧京都地裁長官舎だった建物です。正面に堂々とした唐門があります。下立売通側には、武家屋敷風長屋門があります。この屋敷は、かつて京都御苑内の御所建礼門前にあった有栖川宮旧邸の屋敷の一部を移築したものとのことです。第9代当主有栖川熾仁親王は幕府第14代将軍徳川家茂の御台所として降嫁された皇女和宮の婚約者だった人として知られています。1867(慶応3)年12月王政復古により総裁の座に就き、戊辰戦争では東征軍大総督、1877(明治10)年の西南戦争征討総督、1894(明治27)年の日清戦争では参謀総長を就任するなど、明治維新以後の帝国陸軍将官として、また元老院議長も務められています。
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by fushimi_no_occhan | 2010-05-30 23:57

続・幕末の京都、龍馬縁の地を訪ねて (2010年05月29日)

禁裏を囲む宮家邸跡 (京都御苑 )
中山邸跡(明治天皇生誕の地) (御所北東朔平門より東)
中山忠能卿の旧邸跡。1852(嘉永5)年9月、後、1867(慶應3)年に即位される第122代明治天皇が、父孝明天皇、母は権大納言中山忠能の娘藤原慶子の間で孝明天皇の第2皇子として降誕。孝明天皇が祐宮(さちのみや)と命名されます。1856(安政3)年まで4年間ここで生育された所(母の実家)です。邸跡内に孝明天皇が明治天皇の宮号に因んで「祐ノ井」と命名された井戸があります。
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橋本家跡(皇女和宮生誕の地) (御所東側)
1846(弘化3)年5月御所の東に隣接する橋本邸において仁孝天皇の第八皇女として誕生。 母は典侍橋本経子(観行院)。孝明天皇の異母妹。父親仁孝天皇は和宮の誕生に先立つ1月に崩御。和宮は勅命により橋本邸で養育されます。1851(嘉永4)年孝明天皇の命により有栖川宮熾仁親王と婚約。しかし1858(安政5)年6月幕府が勅許を得ずに日米修好通商条約を調印したことで孝明天皇は攘夷を幕府に命じるため内勅を水戸藩に遣わします。これに対して幕府大老井伊直弼は尊皇攘夷派の志士や大名公家への苛烈な弾圧「安政の大獄」を起します。政情不安定の中、孝明天皇は公武合体策を打出し、朝幕関係の修復を行おうとします。その一環として幕府第14代将軍徳川家茂の御台所として皇女の降嫁が決まります。皇女が武家に降嫁し、関東下向したのは和宮唯一人とか。
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学習院跡(御所東南側建春門東北100mあたり)
学習院は、第115代桜町天皇の皇后、妃桃園天皇の御母(藤原定子)の御殿であった御所開明門院の地に、仁孝天皇の御遺志にで公家の風儀の乱れを正し、再教育を施すために、1842(天保13)年に学習所として設立。1849(嘉永2)年に孝明天皇から「学習院」の勅額を下賜されます。1862(文久2)年頃、幕府に対して朝廷の勢力影響力が大きくなった頃には、尊王攘夷派の志士が学習院御用掛とか、出仕に選ばるとか、薩長土の公武周旋の旨を命ずるなど、学習院が維新のための道具に使われています。この御所の学習院は1870(明治3)年に廃校。後の1877(明治10)年華族の子弟教育のため新しい学習院が東京に創立されます。
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桂宮亭跡(御苑今出川門より南50m程 東側)
1861(文久1)年10月幕府第14代将軍徳川家茂に降嫁の和宮は、仮御殿の桂宮邸を出発し、中山道経由で江戸へ下向します。桂宮邸は今出川御門南にあり、和宮は2年近く住んでいます。1896(明治26)年頃、邸宅は二条城の本丸御殿として移築されたとのことです。
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by fushimi_no_occhan | 2010-05-29 23:50

有名人の奉納玉垣がイッパイ (嵐山 芸能神社(車折神社摂社) (2010年05月28日)

嵯峨嵐山の地、嵐電車折神社駅前と三条通に挟まれた所、右京区嵯峨朝日町に車折神社があります。その境内には全国的にもユニークはお宮さん、車折神社摂社の芸能神社さんがあります。お祀りされている御祭神の天宇受売命(あまのうずめのみこと)は、天照大神が天岩戸に閉じこもってしまわれた時、岩戸の前で踊られ天照大神を誘い出されたことから、芸能の祖神とされています。故に、地元京都では多くの京舞のお師匠さんやお弟子さん、また花街の芸舞妓さんたち芸能上達の祈願に参詣されています。そして全国的な有名芸能人の方たちやこれから頑張ろういうタレントさん方もお参りこられ、彼らが寄進された芸名を記した朱色の玉垣が境内周囲に所狭しとビッシリとはり巡らされています。茶道の家元の名前の見られます。恐らく数千はあるでしょう。また本殿の社殿のいたるところに、彼ら自身のシール、発表CDのジャケット、ブロマイドあるいは千社札などが、これまた社殿の元の構造が判らなくなるほどビッシリと貼り付けられています。また、TVなどでよく見かける当代人気芸能人の玉垣の名前では、次から次へとギャルたちやオバサンたちがその脇に立ち記念のショットを撮っておられますので、掲載の画像のように人影の無いチャンスを掴むのに大変な時間がかかりました。(画像は5月16日三船祭の時の撮影です)
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by fushimi_no_occhan | 2010-05-28 22:00

かつての金融街(伏見 両替町通) (2010年05月27日)

京都の南北幹線道路、京町通と平行に一本西側に京阪本線を挟んで両替町通という道路があります、町名は南端の両替町1丁目から北へ3丁目までで、東西の幹線道路大手筋通と交差します。そこから北へは町名を銀座町と町名を変え銀座町1丁目から北へ4丁目まで進みます。そこから北へは、町名を再び両替町と名前を戻し両替町9丁目から15丁目で北端になります。町名の示すとおりこの付近、特に大手筋通を挟んだ両替町2丁目付近から銀座町4丁目付近は、今で言う金融街として発展し、日本で最初に「両替」、「銀座」という町名が出来たところです。1600(慶長5)年9月「関が原の戦い」のあと、家康の天下になり、伏見城を当初の家康の居城としたことで、秀吉が築いた伏見城城下町を再整備し、河川港の伏見港を要とした水運を発展させ、人の往来、物資の流通を盛んにさせたことから当然統一通貨での取引の円滑化が必要になり、この地に集中的に貨幣の鋳造所や銀地金の買売を行う銀座を設けています。多くの両替商が店を出し商いを行ったと云われています。

此付近 両替商旧跡(伏見区両替町三丁目)
伏見の両替町通の名は、1601(慶長6)年に家康により伏見銀座が置かれ流通通貨の全国統一を図ったたことから始まります。1608(慶長13)年に京都にも銀座が置かれ、次第に金融の中心が京都へシフトしていきますが、伏見の銀座も依然として商いを受け継いで、多くの両替商が軒を並べていたと云われています。両替町3丁目と豊後橋通の東北角の旧家の蔵前に、ここがかつての両替商の旧跡であったことを示碑があります。
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此付近 伏見銀座跡(伏見区銀座町一丁目)
1601(慶長6)年5月、経済を拡大させるために取引の円滑化が必要になり、流通通貨の丁銀、小玉銀などの銀貨の品位の確保、全国統一を行おうと、伏見のこの地に集中的に貨幣の鋳造所や銀地金の買売を行う銀座を設けています。四町にわたって会所や役宅が置かれ、江戸時代の銀座のはじまりとされています。慶長13(1608)年銀座は京都中京の両替町へ移転、されに江戸、大阪、他各所にも設置されています。その後、伏見銀座は廃止されますが、銀座の町名は今にとどめています。銀座町1丁目と大手筋通の角、労金伏見支店(旧みやこ信金伏見支店)前に伏見銀座の跡を示す碑があります。
現在、銀座と言えば、日本を代表する大型百貨店、世界中のブランドショップや高級老舗が建ち並ぶ大東京の銀座通ですが、伏見銀座跡の碑の後ろにある植栽は、その東京の銀座から贈られたものだそうです。
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by fushimi_no_occhan | 2010-05-27 22:47

続・幕末の京都、龍馬縁の地を訪ねて (2010年05月26日)

蛤御門
京都御所の周囲の九ヶ所の門の一つ。烏丸通に面して西向き、下長者町通と上長者町通の中間辺りに、従来の正式名称は新在家御門という名で呼ばれる「開かずの門」でしたが、1788(天明8)年の「天明の大火」の時に初めて扉が開かれ、あたかも火に掛けられて口を開く蛤の様だという事で「蛤御門」と呼ばれるようになった高麗門型筋鉄門です。1864(元治1)年に起こった「禁門の変」では最大の激戦地となったことから、この事変を「蛤御門の変」とも言われます。当時、この門は、現在の位置より御所内に凹むように東寄りにあり、鍵型になった塀に沿って南向きに建っていました。現在でも門柱には、当時長州兵の発砲による弾痕が残っています。
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「蛤御門の変(禁門の変)」
1864(元治1)年6月15日、前年の「八・一八の政変」で禁裏の守備を解かれ退京を命じられた長州藩は、藩主父子の赦免などを求めて京へ軍事進攻をかけるべく国元を出兵、6月末には京都近郊の伏見、山崎、天龍寺の3ヶ所に布陣し、軍事力をバックに朝廷への陳情を働きかけます。しかし、朝廷はこれを拒否し、退京を命じ、ついには追討令が出されかねない形勢に陥ります。追いつめられた長州兵は、7月17日に石清水八幡宮で軍議 を開い て決戦の方針を定め、19日未明決起します。作戦は京都の郊外3ヶ所の陣から一斉に御所を目指し進攻、禁裏へ突入、天皇の身柄を確保、長州へ御動座願うという計画でした。これに対して幕府軍は、会津、薩摩藩を中心に諸藩の兵力を合わせて数万の兵で御所一帯の守備を固めていました。戦いはまず伏見方面で始まります。伏見長州藩邸から出陣した福原越後が率いる兵と幕府軍大垣藩が筋違橋付近(稲荷大社付近)で衝突。長州兵は劣勢となり、藩邸へ後退します。一方、天龍寺に布陣していた国司信濃の兵が、途中幕府軍の迎撃も無く京の街への進軍に成功し、御所へと迫り、中立売御門、蛤御門、下立売御門の三ヵ所から攻撃を仕掛けます。戦端は中立売御門で始まり、ここを守備していた幕府軍黒田藩と一橋兵は、長州兵に発砲します。長州兵は、「御所から発砲があった。もはや御所とて遠慮は要らぬ。撃て!」と攻撃を開始。黒田藩兵は戦わずして退却。残った一橋兵も長州勢の攻勢を支えきれず、一条通方面へ退却。長州勢は優勢となり、中立売御門から御門内へと突入、日野邸を通って唐門の前に進軍。ここで会津兵と対峙。会津兵も次第に押され後退、ついに長州兵は日野邸に突入します。この時、幕府軍会津兵を指揮していたのは、病身の会津藩主松平容保に代わって、禁裏御守衛総督の一橋慶喜でした。松平容保には公家達の動揺を抑えるため常御殿に詰めさせていました。一橋慶喜は自ら会津兵に直接下知し、自軍一橋兵と共に長州兵に対峙させています。このとき、来島又兵衛が率いる長州兵が蛤御門を突破し御所内へ突入します。同時に下立売御門からも突入し、戦況は長州勢が極めて優勢となり、天皇の御座所を目指してさらに進攻を開始します。この戦況を変えたのが、藩邸で待機していた西郷隆盛率いる薩摩兵で、御所の戦況の急変を聞き、御所へ急行、乾御門から御所へに突入するや直ちに長州兵へ総攻撃を掛けます。薩摩藩鉄砲隊は来島又兵衛を発見するやいなや狙撃に成功。この時から形勢は逆転、長州兵は指揮官を失ない総崩れとなり、敗走。蛤御門の長州兵が敗走した直後に、最後に山崎から進軍した益田右衛門介の率いる長州兵が堺町御門に到着するも、御所は既に幕府軍が集結し占拠し、益田右衛門介は、やむなく堺町御門の鷹司邸屋敷に潜り込み、幕府軍と対峙します。この隊にいた久坂玄瑞は、前太政大臣鷹司政通に嘆願し御所へ参内する供に加えるよう要求しますが、政通はこれを拒否。幕府軍に包囲され絶望的な戦況の中で、久坂玄瑞は寺島忠三郎と差し違えて絶命します。さらに、事の顛末を国元へ報告すべく屋敷を脱出しようとした入江九一は、門前で幕府兵に刺殺されます。この戦闘で幕府軍は辛うじて勝利し、幕府軍総指揮官一橋慶喜は、鷹司邸を焼き払うように命じます。この火が京都の町に類延焼し、三日間三晩燃え続け、市内の大半が焼け落ち、実に3万軒弱もの家屋や多くの社寺が焼失ています。これは1788(天明8)年の「天明の大火」に次ぐ被害を出し、「どんどん焼け」と呼ばれる大火となっています。御所から撤退した長州兵は暫時国元へ向けて落ち延びますが、真木和泉ら17名の兵は天王山に立てこもり反撃の機を覗っていましたが、追討を受け自害しています。7月21日孝明天皇は「蛤御門の変」に対し、長州追討の勅命を発しました。この結果、長州は朝敵となり、「第一次、第二次長州征討」へと時は進んでいきます。
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by fushimi_no_occhan | 2010-05-26 10:11

続・幕末の京都、龍馬縁の地を訪ねて (2010年05月25日)

堺町御門
現在は京都市の中心にある国民公園として、京都御所の周囲に広がる京都御苑ですが、幕末当時は、一帯が中央の禁裏を取り囲むように多くの宮家、公家の屋敷がひしめき合って建っていました。その周囲は築地塀などで囲まれており、出入り口は、周りに九ヶ所の門で固められていました。その中の一つ、禁裏南門である建礼門と一直線の南側に位置し丸太町通に面し堺町通に対向している門を堺町御門と呼んでいます。この門の構造は他の八ヶ所の門と異なり、門の両袖に見張役詰所を持つ堂々たる構えです。幕末期には、「八・一八の政変」の舞台となった所です。当時は、この門を挟んで東側に公家鷹司邸、西側に公家九条邸の屋敷がありました。現在西側の九条邸屋敷跡にはその遺構として、九条池とその池畔に茶室拾翠亭が現存しています。
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「八・一八の政変」
1863(文久3)年、京都では尊皇攘夷を叫ぶ長州藩急進派が、同じく尊攘派の公家三条実美らと組み、勢力を伸ばしていきます。その長州藩は孝明天皇の大和行幸の機会を狙い、攘夷の実行を幕府及び諸大名に命ずる事を天皇に献策する一方、攘夷親征(天皇自ら出陣し攘夷をする)の詔をたてに幕府に対しても攘夷の実行の期日を迫ります。しかし長州の強引な手法を察知、それに違和感を覚えられた孝明天皇は、このままでは朝廷と幕府との対立が決定的となり、それを避けるために京都守護職会津藩主松平容保に自らの意思を伝えます。もとより朝廷と幕府とを結びつける役目を担う松平容保は、天皇の支持を得たとし、公武合体派であった薩摩藩との連携に成功。薩摩藩の強力な勢力を得た松平容保は、朝廷における尊攘派一掃を画策します。そして、1863(文久3)年8月17日宮中の公武合体派中川宮、前関白近衛忠煕とその子忠房、右大臣二条斉敬、内大臣徳大寺公純らは、参内謁見して尊攘派公家や長州藩主毛利敬親、定広父子の処罰、長州藩を主とする尊皇攘夷派を京都における政治の中枢から追放する旨の「非常の大議」を決議します。その時に守護職、所司代も兵を率いて参内警備に当たる事、また中川宮らの護衛として、会津藩、薩摩藩士がその任につくことなどが決まり、翌8月18日子の半刻に決行されます。まず会津、薩摩軍は、御所堺町御門前の丸太町通を挟んで桂小五郎、久坂玄瑞らの長州軍と睨み合い、長州軍の進入を阻止。やがて御所すべての門を固めます。この動きに対し、三条実美ら尊攘派公家は、事情を質すために関白鷹司邸へ集まりますが、これが禁足を命じた勅定違反として参事、国事、寄人罷免のうえ京都からの退去を命じられまいます。長州藩は、やむなく禁裏への発砲で朝敵となる事態を避け、尊攘急進派の公家三条実美、三条西季知、四条隆謌、東久世道禧、壬生基修、錦小路頼徳、沢宣嘉の七卿を保護し東山妙法院へ退去。そして翌朝、七卿は雨の中、蓑笠をまとい長州藩兵の護衛のもと伏見へと向かい、海路大坂、兵庫を経て長州へと都落ちする(七卿落ち)という政変(クーデター)を「八・十八の政変」と呼ばれるています。この時、京都守護職は、まだ壬生浪士組を名乗っていた近藤勇らに御所の南門の警備を命じ、彼らに「新撰組」という隊名を与えます。これが近藤勇らの京都における最初の公的な警備活動になります。
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by fushimi_no_occhan | 2010-05-25 17:27

続・幕末の京都、龍馬縁の地を訪ねて (2010年05月24日)

禁門変長州藩殉難者墓所、禁門変長州藩殉難者墓所 相国寺総墓地内 (上京区相国寺門前町)
1864(元治1)年7月19日「蛤御門の変」において鷹司邸附近で、会津、薩摩藩などと戦った長州藩の戦死者のうち、湯川庄蔵ら20数名が臨済宗相国寺派大本山相国寺に葬られています。相国寺総墓地の入り口にその墓所を所在を示す碑があり、相国寺総墓地内中央に墓石が立っています。
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甲子役戊辰役 薩摩藩戦死者之墓 林光院境外墓地 (上京区上立売通寺町西入ル北側)
相国寺東門をでて、そのまま真直ぐ東へ少し行ったところ、北側に石柵で囲まれて、立派な墓地があります。ここは臨済宗相国寺派大本山相国寺の塔頭林光院さんの境外墓地で、その中央に、「甲子役戊辰役 薩摩藩戦死者之墓」と刻まれた大きな石碑があります。1915(大正4)年に建立された墓標です。「蛤御門の変」(甲子役)と「鳥羽伏見の戦い」(戊辰役)で戦死した薩摩藩士72名の合葬碑になっています。
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薩摩藩邸跡(二本松薩摩藩邸) 上京区今出川烏丸上ル 同志社大学今出川校舎西門前)
薩摩藩邸は、1670(寛文10)年頃から営み、藩主島津斉彬の養女篤姫(天璋院)が徳川家へ輿入れのため江戸へ下向の途中、1853(嘉永6)年一時期滞在されたこと、1862(文久2)年の薩摩尊攘急進派有馬新七らを鎮撫した寺田屋騒動事件、さらに1866(慶応2)年の坂本龍馬襲撃事件で負傷し逃げ込んだという、何かと話題の多い、伏見区東境町にあった薩摩島津伏見屋敷の他に、1751(宝暦)年頃に洛中の本邸として東洞院通錦小路下ル付近(大丸京都店付近)に薩摩島津京屋敷を設けています。幕末期,藩主島津久光の上京後の1863(文久3)年、薩摩藩は時の政情の中心的存在になり、藩士の往来が激しくこの本邸が手狭になったため、相国寺境内南側一帯の二本松に新屋敷を設けています。これが二本松薩摩藩邸といわれている屋敷で、新たな政治拠点となり、1866(慶応2)年には、「八・十八の政変」や「蛤御門の変」などで、激しい敵対関係にあった薩摩と長州が坂本龍馬や中岡慎太郎の仲介により両藩が倒幕、新政府樹立への政治的、軍事的同盟を結ぶという、所謂「薩長同盟」を締結しています。これにより維新は大きく前進するわけですが、その同盟が結ばれたのが、この二本松薩摩藩邸です。この藩邸は維新後、会津藩士山本覚馬を経て、その後新島襄創設の同志社英学校の所有となっています。現在、同志社大学(付属中学校も含む)今出川校舎となっておりその今出川校舎西門前に、薩摩藩邸跡の碑があります。近くには西郷隆盛邸や薩摩藩家老小松帯刀邸もあったと言われていいます。「薩長同盟」の盟約には薩摩側西郷隆盛、大久保利通、小松帯刀、と長州側桂小五郎(木戸孝允)が出席、坂本龍馬が立ち会っていますが、龍馬は桂小五郎の求めに応じて裏面に朱書で署名したとなっています。
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加賀藩邸跡(中京区木屋町通御池西南角)
幕府最大の雄藩加賀藩前田家の京屋敷(加賀藩邸)は、1788(天明8)年の「天明の大火」で焼失。その後再建されています。加賀藩は、1866(慶応2)年「鳥羽伏見の戦い」では、幕軍の敗北を知り出兵取止め。それ以降の戊辰戦争では官軍側につき地元北越で戦っています。藩邸は明治新政府になって上地され、一時期京都府知事公邸として使用されていましたが、第二次大戦末期に空襲の防火対策から御池通の拡幅で敷地の一部が接収されています。木屋町通御池西南角、高瀬川畔に加賀藩邸の跡を示す碑があります。
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鳥羽伏見戦防長殉難者墓 仲恭天皇陵前 (東山区本町15丁目)
臨済宗東福寺派大本山東福寺には、幕末、長州藩の本陣となります、凡そ2100名の長州藩士が駐屯。「鳥羽伏見の戦い」は幕府軍の後退で伏見での戦いは終ります。この戦いで殉難の長州藩士石川厚狭介以下48名は、東福寺境外、仲恭天皇陵前の山中の地に遺体を葬り墓地としています。その墓石群の前面には一基の大石灯籠と長州兵戦没者の功を讃えた崇忠之碑があります。その墓地の入口に鳥羽伏見戦長州藩戦没者の墓所を示す鳥羽伏見戦防長殉難者墓の碑があります。
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戊辰役殉難士菩提所 退耕庵前 (東山区本町15丁目)
臨済宗東福寺派大本山東福寺の塔頭 退耕庵は東福寺境内の北西端に位置し、洛中との幹線道路の一つ伏見街道に接しています。東福寺を本陣としていた長州藩は、この伏見街道の要所の守備のため、退耕庵に守備分隊を駐屯させています。「鳥羽伏見の戦い」の終了後、長州藩戦死者の菩提所としています。門前の石標は、それを示す戊辰役殉難士菩提所の碑があります。
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東福寺塔頭即宗院 西郷隆盛建立の殉難島津藩士の顕彰碑 即宗院 (東山区本町15丁目)
臨済宗東福寺派大本山東福寺の塔頭 即宗院は、東福寺方丈の東側(龍吟庵(国宝)の東側に隣接)にあります。その境内のさらに東の奥には、茶室「採薪亭」跡があります。ここで西郷隆盛と清水寺成就院僧侶、尊皇攘夷派の月照が倒幕への密議を交わしたと伝えられています。西郷隆盛はここに隠棲し、さまざまな令を発して維新の大業をやり遂げたと云われています。鳥羽伏見の戦いから会津藩東征まで、この間に殉難の島津藩士524柱を永く称えるため、薩摩に戻る途中、当院に一時期滞留し、自ら工事を指揮し顕彰碑を建立しています。
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伏見寺田屋殉難九烈士之墓 西郷隆盛先生建之書亦直筆也 大黒寺墓地 (伏見区鷹匠町)
伏見区鷹匠町に円通山と号し真言宗東寺派で、ご本尊「出生大黒天」を祀る大黒寺さんがあります。京都大黒天霊場会 第六番札所伏見大黒天さんです。幕末、1862(文久2)年4月、維新の先駈けとなった尊王攘夷の薩摩藩の倒幕急進派誠忠組ほか浪士らが寺田屋で決起談合中、これを中止させようとする在京中の島津久光公が急派した藩の鎮撫使とで同士討ちの戦闘が発生、世にいう「寺田屋騒動」です。その時、上意討や、切腹した有馬新七ら9烈士の墓石がここ大黒寺にあります。墓石の横にある碑文には、西郷隆盛筆と書かれています。島津久光公はこの戦闘で寺田屋が被った被害を即日弁済し他言を禁じたとか(この事件は、続く1866(慶応2)年1月に同じ寺田屋で発生した「坂本龍馬襲撃事件」、宿娘お龍さんの献身的介護があった4年前の事件です)。またこのお寺さんには、西郷隆盛と大久保利通が会談に使ったとされる部屋が今も残っています。
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旅籠寺田屋女将 お登勢の墓 松林院墓地 (伏見区鷹匠町)
大黒寺さんの向かい、松林院さんの飛地境内墓地があります。ここの墓地に、伏見港の船宿、旅籠寺田屋さんの墓所があります。境内墓地中央付近、寺田屋御一党の墓が3基、その左端の七輪塔が六代目女将お登勢さんの墓です。寺田屋の女将お登勢さん、ここで改めて紹介するまでもなく、歴史小説、TVドラマや映画など近世の歴史物では坂本龍馬らと共に必ずといってよいくらい登場する人物、伏見の幕末の騒乱期、陰になり日向になり志士たちを支え、気丈に生抜いた女性の一人、その彼女、1877(明治10)年没しています。享年48歳。
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by fushimi_no_occhan | 2010-05-24 23:51

続・幕末の京都、龍馬縁の地を訪ねて (2010年05月23日)

本間精一郎遭難之地(中京区木屋町通四条上ル東側)
越後国寺泊(現在 新潟県長岡市)出身。尊皇攘夷の思想を持ち、その中でも急進派として知られています。江戸に出て清河八郎らから修学し、京都では薩摩や土佐出身の志士たちに尊皇攘夷や倒幕の必要性を説くも、酒癖悪く志士らの反感を買い、逆に1862(文久2)年8月20日に先斗町近くで同志の凶刃に倒れることになります。享年28歳。犯行は土佐藩士岡田以蔵(人切りの以蔵と)言われています。遭難の場所、中京区木屋町通四条上ル、歓楽街のど真ん中にそのことを示す「本間精一郎遭難之地」と刻んだ碑があります。維新後新政府からは従五位の官位が贈られています。
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吉村寅太郎寓居址(中京区木屋町通三条上ル東側)
幕末の土佐藩士。武市半平太率いる土佐勤王党に加盟。後に脱藩し浪士蜂起計画(伏見義挙)に参加。寺田屋事件で捕縛されて土佐に送還、投獄。赦免後再び京都へ。孝明天皇の大和行幸の先駆けとなるべく中山忠光、藤本鉄石らと天誅組を組織、大和国で倒幕の挙兵をするも、「八・十八の政変」で尊皇攘夷派が弾圧され大和国吉野で敗死します。享年26歳。中京区木屋町通三条上ル東側の「武市瑞山(武市半平太(月形半平太))寓居之跡」の碑の直ぐ隣に「吉村寅太郎寓居の跡」を示す碑があります(碑のあるお店はそれぞれ別です)。
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維新史跡 池田屋騒動址(中京区三条通木屋町西入北側)
1863(文久3)年8月18日の「八・一八の政変」後、京都では公武合体派が勢力を伸ばし尊王攘夷派の弾圧が行われていました。一方、長州、土佐、肥後などの各藩尊攘派志士らは勢力回復の策を模索していました。1864(元治1)年5月、将軍徳川家茂が、江戸に戻る一方、島津久光、松平慶永らもそれぞれ国元へ戻ります。そこで京都の警備が手薄となるため、京都守護職は新撰組に市内の警備の任に当たらせています。勢力回復の機会を狙っていた長州藩他の尊攘派志士らは、祇園祭の前の風の強い日に京都御所と中川宮邸に放火し、その混乱に乗じて、中川宮朝彦親王(後の久邇宮朝彦親王)を幽閉、京都守護職の松平容保らを暗殺、孝明天皇を長州へ連れ去るという計画を謀っています。5月下旬、市内の警備中の新選組は、四条小橋上ル真町で炭薪商を営み枡屋喜右衛門を名乗る古高俊太郎(攘夷派の志士)を逮捕します。新撰組副長土方歳三の拷問による自白から、先の陰謀の全容を把握。さらに新撰組は、長州藩過激派志士らが古高俊太郎の逮捕で、この計画を実行するか、否かの談合を池田屋か四国屋で行うという情報を入手。1864(元治1)年6月5日、新撰組は二手に分かれ、土方歳三ら24人は、四国屋付近へ急行、付近を虱潰しに探索、一方の近藤勇(31歳)ら10人は、三条木屋町(三条小橋)の池田屋を包囲。「御用改めである!」、近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助ら4人が屋敷内に突入。池田屋には長州、土佐藩尊攘派志士20人ほどが二階で談合中のところを襲撃、たちまち戦闘になる。沖田総司は、戦闘中に喀血。藤堂平助は額を負傷し戦闘から外れます。その間、四国屋付近を探索中の土方歳三らが、池田屋に駆けつけ戦闘に加わります。尊攘派志士らの一部は屋根伝いに逃走しますが、松下村塾の四天王の1人といわれた吉田稔麿(長州)や宮部鼎蔵(肥後)ら7人が斬殺(「殉難七士」)されています。この事件(騒動)を、後に「池田屋騒動」と呼んでいます。この事件以降、長州藩尊攘派の巻返しとなる「蛤御門の変」などの幕末の騒乱、政情不安が続き、明治維新への転換の時期に大きな影響があったと云われています。新撰組は、京都御所焼き討ち計画を未然に防いだとのことで、京都守護職より労をねぎらわれ、近藤勇には幕府旗本職を任じる旨の打診もあったとか。そして新撰組の名が天下に広く知れ渡るようになります。この事件のあった池田屋はその後、尊攘派志士の溜場であったとのことで主人池田屋惣兵衛は投獄、のち獄死。その後池田屋は廃業、別の経営者が引継ぎ佐々木旅館として長く営業され、当時の建物も現存していましたが、1960(昭和35)年頃取り壊されています。跡地は売却されテナントビルが建ちました。つい最近まではパチンコ屋さんが商いをしていましたが、2009(平成21)年に居酒屋「海鮮茶屋「池田屋」はなの舞」さんのお店が開業しています。現在、池田屋の歴史的遺構は何もありませんが、その店の前に池田屋騒動があった跡である旨の碑があるのみです。
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彦根藩邸跡(中京区木屋町通三条下ル二筋目(山崎橋西詰))
井伊家彦根藩は,数ある譜代大名の中の筆頭格で幕政に深く関与する藩でした。幕末の1858(安政5)年幕府大老になった第13代藩主井伊直弼は、開国、通商を攻め立てる米提督ペリーに抗し切れず、朝廷の勅許を待たず日米修好通商条約に調印します。これに異を唱える、将軍御三家の一つ、水戸藩や尊王攘夷派活動家を取締り、多くの活動家が投獄処刑されるという、世に言う「安政の大獄」を起こします。その結果、井伊大老は、登城途中の桜田門外で、水戸藩脱藩浪士他により暗殺されます。この彦根藩の井伊家京屋敷(彦根藩邸)は、江戸後期に、高瀬川と河原町通の間におかれ、彦根藩の京都連絡事務所として使われていました。1867(慶応3)年の大政奉還の後は譜代筆頭にもかかわらず新政府側に藩論を転向、「鳥羽伏見の戦い」では官軍の後方支援として参戦しています。現在、西木屋町通の山崎橋の北に「彦根藩邸跡」を示す石碑があります。
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稱名寺(寺の裏が龍馬襲撃事件の近江屋と地続き)(中京区裏寺町通蛸薬師下ル裏寺町)
浄土宗のお寺さんです。このお寺さんは幕末の1867(慶応3)年11月の坂本龍馬、中岡慎太郎が、幕府見廻組佐々木只三郎らに襲撃、斬殺の遭難之地(近江屋事件)となった河原町通に面している醤油屋「近江屋」の真裏で地続きになっていて、坂本龍馬が仮寓していた近江屋の裏の土蔵から、稱名寺側に緊急避難出来るように工夫されていたとか。しかし、その当夜は、たまたま母屋二階で中岡慎太郎と話込んでいたために襲撃から逃げられなかったといわれています。
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水戸藩邸跡(上京区下長者町通烏丸西入北側)
幕府御三家の一つ水戸藩京屋敷(水戸藩邸)は,江戸中期頃、この地、護王神社北側付近に設けられ,幕末まで続いています。この地の東側は直ぐに宮家、公家の屋敷、その中央に禁裏があり、一方西側は一丁ほど先が二条城(徳川慶喜が大政奉還をした徳川幕府の京都の居城)という地の利で朝廷の動向の情報収集するのに一役買っていたかもしれません。下長者町通烏丸西入北側に水戸藩邸跡を示す碑がポツンとあります。
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by fushimi_no_occhan | 2010-05-23 23:27

続・幕末の京都、龍馬縁の地を訪ねて (2010年05月22日)

伏見奉行所跡 (伏見区西奉行町(京都市営桃陵団地内) )
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かつての京都の南北幹線道路、京町通の二丁目と三丁目の間、魚町通との交差点を東へ、直ぐに近鉄京都線のガードを潜り、さらに少し行くと、その前方一帯は大規模な住宅団地(京都市営桃陵団地)が広がります。ここは江戸初期の1623(元和9)年伏見城廃城後、城代に代り、幕府直轄領として、遠国奉行に相当する伏見奉行(遠国奉行では唯一大名格が就任)が置かれた所です。現在はその面影を見る片鱗すらありませんが、団地入口にはここが「伏見奉行所跡」であることを示す碑が黒板高塀の前にポツンとあります。伏見奉行の実質的な機能は1647(正保4)年第7代奉行として水野忠貞が着任後、伏見と周辺8ヶ村の民政を支配するほか御所警護、西国大名監視(参勤交代時の無断入京の禁止)の役目を担います。その役目を大きく変えたのが幕末、幕府機能の疲弊や尊皇攘夷、開国論の台頭などによる政情不安、それに乗じた下級士族、脱藩浪士らの動向監視、上洛の取締り強化などが役目となっていました。その一つに1866(慶応2)年1月旅籠寺田屋で止宿中の坂本龍馬を奉行所の捕方が包囲する坂本龍馬襲撃事件などが発生しています。
慶応4年(1868)1月3日鳥羽城南宮付近小枝橋を挟み幕府軍と薩長軍(新政府軍)の衝突が発生、「鳥羽伏見の戦い」が勃発します。伏見でもほぼ同時刻に御香宮に陣取っていた薩摩軍砲兵隊より伏見奉行所への砲撃が開始。奉行所を本陣としていた会津、桑名藩を中心とする幕府軍や新撰組ら凡そ1500名と薩長軍800名とで伏見各所で激しい市街戦が起こります。この戦闘で伏見奉行所は灰燼に帰し、その日の深夜には幕府軍、会津藩、新選組らの戦闘の劣勢は否めず、伏見における拠点を失い淀方面に敗走せざるを得ない状況となります。敗走する幕府軍の放火などにより奉行所より西側の伏見の町並みをほとんど焼き尽くすことになりました
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伏見奉行所跡の碑の隣に、上部に笠石を載せ、碑文と2枚の写真を焼付けた碑があります。これは1958(昭和33)年に竣工した桃陵団地の歴史を示す碑です。2枚の写真は団地建設時に発掘された江戸時代の奉行所の石垣と明治時代に陸軍伏見工兵第16大隊が駐屯した時、奉行所前の道路部分を西へ広げて建設した石垣の調査結果を示しています。この碑の上部の笠石は陸軍が西へ広げて建設した石垣の笠石の一部だとの説明があります。
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この桃陵団地入口にはもう一つ、伏見奉行所跡の碑に対向して、入口の右側に「伏見工兵第十六大隊跡」を自然石に刻んだ碑があります。明治新政府は伏見奉行所跡を含む付近一帯を早くから軍用地として徴用していました。1908(明治41)年第16師団が京都に設置、その司令部が伏見深草に建設されます(司令部建屋は現在も聖母女学院深草キャンパス本部として現存)。これに伴う隷下部隊編成の一つに、工兵第16大隊が第4師団(大阪)から第16師団に編入され、その駐屯地を伏見奉行所跡に建設されました。伏見の街では「工兵隊」の名で広く知れ渡りました。さらに駐屯地の南、宇治川畔一帯の広大なエリヤを渡河訓練を含む各種作戦演習地として確保しています。終戦、旧陸軍の解体により工兵隊も解散、駐屯地には米陸軍が進駐、米陸軍桃山キャンプとして接収されました。そして10年後、桃山キャンプは日本側に返還され、1958(昭和33)年京都市では初の大規模住宅団地(京都市営桃陵団地 約600戸 )を建設し現在に至っています。
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以下の画像は、1940(昭和15)年当時の伏見工兵第16大隊への師団長巡視、創立記念日の風景などの写真です。また最後の2枚は奈良電気鉄道(奈良電 現在:近鉄京都線)の宇治川鉄橋下で行われている架橋敷設、渡河訓練風景の写真です。実家の物入れから見つけました。
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by fushimi_no_occhan | 2010-05-22 10:12