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疎水物語(伏見編 墨染付近~宇治川派流合流点付近 その3 「完」 ) (2009年05月31日)

三栖閘門をご案内した後で、テーマが逆転しますが、約2年前の7月4日にご案内した疎水物語(伏見編 墨染付近~宇治川派流合流点付近 その2 )に続いて、思い出したように久々に疎水物語を取り上げます。本日は<その3>として、伏見のメインストリート西大手筋に架かる大手橋から宇治川派流合流点付近まで辿り着きましたので、これをもちまして疎水物語の「完」とします。宇治川派流合流点付近は昨日取り上げましたように、三栖閘門施設の展示館、散策路などが整備され、伏見港公園として、周辺の酒蔵の並ぶ街並みと一体で伏見の観光スポットとなっています。ちょうど今時の季節は、濠川両岸の枝垂柳の緑が水面に映える中、観光船伏見十石舟に乗れば、舟上からも、かつての伏見の街の情緒ある河川港としての風情が楽しめます。
<その1><その2>もあわせてご覧ください。
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by fushimi_no_occhan | 2009-05-31 10:57

三栖閘門 (河川港の伏見港を支えた近代日本の産業遺構 ) (2009年05月30日)

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伏見の街、中書島界隈は、桃山期には太閤秀吉が指月城(初代伏見城)の築城とともに、太閤堤と呼ばれる土木事業や小椋池干拓事業など宇治川の治水事業を精力的に行う一方、宇治川と伏見城の外濠とされる濠川(ほりかわ)とを接続させることにより、ここに全国的にも珍しい内陸の河川港が出現しました。そして伏見-大阪間に水運路が確保され有名な三十石船などが淀川の航路を行き来し、人の往来、物流が活発になり、伏見の町が興隆し、とりわけ中書島界隈は賑わいをみせていました。
江戸期には京都の豪商角倉了以父子らによる高瀬川の開削により、水運路が伏見から京都の中心部へと拡大、利便性が一段と向上していきます。伏見の街は、秀吉から家康の時期まで幕府の政治、軍事戦略的中心の城下町から、徳川家光による伏見城廃城後の衰退期を経て、物流の拠点、経済の中心地として再び蘇り、幕府の遠国奉行所(伏見奉行所)、伝馬所や、銀座など我国初の金融拠点も拡充し、さらに西国大名たちの参勤交代の時、立ち寄る本陣や藩屋敷も置かれ、秀吉時代にも増して充実した街が形成していきました。幕末期には西郷吉之助、坂本龍馬ら勤皇の志士たちや近藤勇の新撰組らが活躍した、近代日本の夜明けとなった街であることはすでにご承知のことです。
明治期に入り開削された琵琶湖疏水が伏見地区は濠川と接続、琵琶湖(大津)から京都市内、伏見を経由し大阪まで2ヶ所のインクラインを介して運河が完成し、三十石船などによる物流が活発になっていきます。その後疎水を利用した水力発電の電力で1895年(明治28)年日本初のチンチン電車、京都電気鉄道(後の京都市電)が伏見港(伏見下油掛(京橋))-京都市内(東洞院塩小路)間で開通、さらに1910(明治43)年には京阪本線(大阪天満橋-京都清水五条間)の開通により、人の往来は水上交通から陸上交通へシフト。舟による人の通行は衰退していきますが、物流については、輸送量、コストの面から依然として水運に頼らざるを得ず、活発に行われていました。
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その後、宇治川の堤防の整備や上流の大峯ダム(天瀬ダムの前身)の建設などにより宇治川の水位が変化し濠川とで水位差が生じ、舟の運航が不可能になるため、1929(昭和4)年に三栖閘門が建設されました。2ヶ所の閘門ゲート間の水位を調節し、異なった水位の濠川と宇治川を連続させて船を通す施設でパナマ運河と同じ原理です。開業当時は年間2万隻の貨物舟の往来があったそうです。その後、鉄道網の拡充や道路輸送の発達と相まって水運は衰退の一方を辿り、ついには通行舟ゼロとなり、設備も放置状態が続きました(昭和30年代の前半、オッチャンがまだガキのころ、水門が開け閉めされて一隻の和舟が閘門を通過していく様をボケーと見ていた記憶があります)。1967(昭和42)年に廃港が決定し、都市計画により跡地は埋立て市民公園「伏見港公園」となりました。放置状態で老朽化していた閘門施設は「舟運の歴史を後世に継承する意味で重要な建造物」として、2000(平成12)年国交省近畿地方整備局によリ復元,再整備され、現在伏見のランドマークの一つとなり、近代日本の産業遺構として国の登録有形文化財に指定、長く保存されることになりました。(なお、伏見港は公園になったことで実体はありませんが、法律上は現在も地方港湾としての港格は抹消されていないそうです)。現在、濠川から三栖閘門は観光船伏見十石舟が季節限定で運行しています。
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by fushimi_no_occhan | 2009-05-30 15:02

近鉄京都線澱川橋梁 (日本最大級の長大ワンスパン単純トラス鉄橋 ) (2009年05月29日)

伏見には日本最大級の建造物があります。それは伏見の南部を東西に流れる宇治川に架かる大型の橋梁、近鉄京都線の前身奈良電気鉄道(通称:奈良電 開業当初は桃山御陵前駅-西大寺間)の鉄道施設として1928(昭和3)年竣工の「澱川(よどがわ)橋梁」です。径間=164.5m、高さ24.4m、使用鋼材(米国製)=約1,800tonという長大なワンスパンの単純トラス構造の鉄橋です。ワンスパンの単純トラスの構造の橋としては当時は勿論、現在においても日本最大級の鉄道橋です。2001(平成13)年には国の「登録有形文化財」に指定されていますが、同時に近代日本の産業遺構、あるいは第二次大戦の戦争遺構とも言われている鉄橋です。最近はこの鉄橋の東側の観月橋(旧国道24号線)から夕日をバックにシュリエットの鉄橋をカメラに収める多くの写真愛好家が見られます。
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当時、何故このような大規模な橋を建設したかについては、軍隊(旧日本帝国陸軍)あるいは伏見の地場産業(酒造り)との関係を無視するわけにはいきません。1908(明治41)年、当時伏見深草には陸軍第16師団司令部の本部(現 聖母学院藤森キャンパス本部)が置かれ、その師団隷下工兵第16大隊(駐屯地は伏見奉行所跡)が伏見南部一帯をその練兵場としていました。そして宇治川のこの付近一帯を架橋演習や渡河訓練の演習地であったため、練兵に支障を来すとのクレームにより途中橋脚を設けた一般的なガータ構造から橋脚のないワンスパンの単純トラス構造に設計変更され当時としては画期的な構造であったとされています。また開業当時の始発駅であった桃山御陵前駅からこの澱川橋梁間は、これも当時としては画期的な全線高架鉄道となっています。当時の伏見のメインストリート大手筋通を平面交差すればその踏切は、すでに100m西側にあった京阪本線の地上軌道の踏切と隣接しすぎるため、地上平面軌道が認められず、地下軌道の案もあったようですが、これには地場産業(酒造り)側から、地下水脈に影響があるとして猛反対にあい、最終的に高架軌道、澱川橋梁への直結となった経緯があったようです。結果的には現在の交通事情への対応のお手本のような鉄道施設です(この近鉄京都線、竹田-十条間は平成になって高架になり、竹田駅(京都市交と併用)付近と近鉄丹波橋駅付近(半地下軌道)を除き、京都駅から澱川橋梁まで高架化されました)。
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この付近には、他にも近代日本の産業遺構があります。それは琵琶湖疏水の終末、宇治川派流の水門の平戸樋門があります。さらにその東には、平安期から月見の名所でもあり、太閤秀吉がこの地に建てた最初の城も指月城と呼ばれていたように月にまつわる名前が多くあり、ここに架かる国道24号の橋も観月橋という名前がついています。その観月橋の橋の右岸袂には、近鉄京都線と直角に交差する京阪宇治線の観月橋駅があります。この駅の向こうには、月見館という現在も創業当時の面影をそのままに、純木造三階建ての大正年間に創業の温泉旅館があります。この旅館の宇治川畔から三十石舟の屋形船で川遊び、船宴会も楽しめます。
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by fushimi_no_occhan | 2009-05-29 10:20

復元東院庭園 (平城宮址 ) (2009年05月28日)

大規模な平城宮址発掘調査において1967(昭和42)年、平城宮址の南東角の張出し部分に広大な庭園の遺跡が発見されました。この場所は古籍によれば「東院」(東宮)と呼ばれていた付近で、称徳天皇の時代に宴会や儀式、使節の迎賓に使用されていた所にあたることから、ここを「東院庭園」となづけられ、長年に亘り調査研究されてきた結果を踏まえ奈良時代の庭園の様式を忠実に復元されたもので、日本庭園の原型とされています。1998(平成10)年に完成しています。
この庭園内から東面築地塀越しに若草山や東大寺の甍が遠望されますが、南面越しにはボーリング場のピンの広告塔が見えるのはなんとも興醒めの観があります。
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大規模な発掘調査状況を示すジオラマが展示されています。
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築地塀の向こうにボーリング場のピンの広告塔が見えます。 
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by fushimi_no_occhan | 2009-05-28 10:26

復元朱雀門 (平城宮址 ) (2009年05月27日)

この17日、阪神-近鉄相互乗り入れのご案内を当ブログにアップのあと、突然PCが異常動作し、ダウンしてしまいました。本機の3度目のダウンで、その後立ち上げ不可に見舞われました。前回の故障時にPCサービス会社に修理持ち込むも、故障内容不明、修理不可能との報告書添付で戻って来た経過から、今回も何とか自力修理を試みました。これで駄目ならニューマシン購入を覚悟し、本体解体、各部品を分解し、接続プラグ、プリント基板上の半導体部品、コンデンサー部品などの異常の有無や半田のクラック、腐食など、細部にわたって点検清掃し、再組み立て、リロードを試みました。結果はやはり駄目でした。諦めきれずにしつっこく、何度も繰り返し一週間が経ってしまいました。23日、これで駄目ならギブアップしようと最後のリロードで電源をオンしたところ立ち上がり、BIOS画面を出すことに成功。バックアップCDによりOSの再インストールを完了。その後一日かけて各種アプリケーションソフトをロードし、元の状態へ復元成功しました。このPCの不具合と時を同じくして、この期間、世間では新型インフルの騒ぎで、外出もままならないことで、ブログネタ取材の外出を控えておりました。このためPCが元通りになっても、徒然のブログご案内ネタがなく、10日ほどお休みをいただいた次第です。これから、ボチボチ、ブログネタ取材で各所ウロウロしようと思っていますが、とりあえず平城宮址の続きをご案内しようと思います。

と、言う事で本日再開の一日目は、来年、平城京遷都1300年事業の一環で、目下精力的に主要建物である第一次大極殿の復元工事や域内整備をされている古都奈良の文化財、近鉄大和西大寺駅付近から、奈良市街西部一帯までの広大なエリヤに横たわる世界遺産「平城宮址」について、まず、復元工事が完成している平城宮の南玄関門、1998(平成10)年復元された朱雀門をご案内しましょう。
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平城京は藤原京から708(和銅1)年に元明天皇による遷都の詔命により710(和銅3)年に遷都された当時の首都で、中国唐の長安を手本に作られた人口は凡そ10万人程度で外周四方を城壁(実際は土塁や築地塀)で囲まれた条坊都市でした。その中央における南面の正門である朱雀門より北側の区画は天皇の住居として儀式や政が行われていたのが平城宮でいわゆる宮城(大内裏=御所)です。その南面の正門、朱雀門が復元され、1998(平成10)年完成した入母屋造り瓦葺、重層構造、5間3戸木造朱塗り白壁で高さ22m、間口約25m、奥行10mの大型の楼閣です。この朱雀門から、現在の大和郡山市にある羅城門跡まで約4kmまっすぐに南伸する道が平城京のメインストリートとなる幅員74mの朱雀大路があったことになります。この都市構造は後の平安京の都市構造も同じです。平城京は740(天平12)年恭仁京への遷都によって一旦放棄されますが、745(天平17)年に再び平城京に遷都(このときの大極殿を第二次大極殿とされ第一次大極殿の東側に隣接して建物の基壇のみ復元されている)され、その後784(延暦3)年長岡京に遷都されるまで74年間都が置かれた所です。(朱雀門のライトアップはここをクリックしてください)
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この朱雀門より北側一帯に広がる平城宮址は世界遺産「平城宮址」であるとともに国の特別史跡にも指定されています。この域内南寄り東西に近鉄奈良線が横切っていますが、これは、この域内が国の特別史跡に指定される以前から大阪電気軌道という近鉄創業路線が走っており、現在では他の私鉄と相互乗り入れされ、阪神電車や京都市営地下鉄の車両も走っています。ただ史跡全体の復元完成に合わせて地下化される案もあるとか、さていつごろになることか。
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by fushimi_no_occhan | 2009-05-27 10:21

平城宮址を快走する阪神(タイガース!)電車 (阪神-近鉄相互乗り入れ ) (2009年05月17日)

今年3月、阪神電気鉄道㈱の西九条駅から大阪難波駅間(阪神なんば線)が延伸開業され近鉄の近鉄難波駅で近鉄難波線-大阪線-奈良線へと接続。阪神-近鉄相互乗り入れの運行が開始され、近鉄奈良駅から阪神三宮駅まで乗り換え無しで往来することが可能となりました。
現在、奈良市内大和西大寺駅-奈良駅間の広大な平城宮址のエリヤで、かつての都、平城京の中心である平城宮の大規模な復元工事が進んでいます。既に完成している復元朱雀門をバックに相互乗り入れした阪神電車、タイガースカラーの新型1000系急行電車が快走しています。
奈良のタイガース応援団は乗り換え無しで甲子園へ、また神戸の応援団は乗り換え無しで京セラドーム大阪へ行くことが可能となりました。
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by fushimi_no_occhan | 2009-05-17 21:51

葵祭(賀茂祭)2009 (上賀茂 上賀茂神社 社頭の儀 ) (2009年05月16日)

全国の神社における例祭、その中で古来より最高の格式を継承する日本三勅祭の一つ、賀茂御祖神社(下鴨神社)、賀茂別雷神社(上賀茂神社)の両社による葵祭(賀茂祭)は1日から行われてきた両賀茂社の各前儀を経て、本日(15日)その本祭である京都御所での「宮中の儀」、京都御所から下鴨神社、上賀茂神社における儀式に御奉仕される「斎王代以下女人列」など平安王朝風俗を展開する行列「路頭の儀」、そしてそのフィナーレとなる行列一行が上賀茂神社に到着後斎行される「社頭の儀」などが、五月晴れのもと、天皇陛下からの御使いとして派遣される勅使(宮内庁掌典職)らにより厳粛に執り行われました。今年はこの葵祭のフィナーレ、上賀茂神社の「社頭の儀」を観覧してきました。
上賀茂神社、一之鳥居前に到着した一行は、騎乗の者は下乗、斎王代は輿から降り、全員体勢を整え、白砂の参道を二之鳥居に向けて参進されます。この参進の様子は、行列に加わっていた馬、牛車、輿などはありませんが、行列の全体像や全員の装束などが全て観覧出来る所です。全員が境内二の鳥居内の所定の位置に着座されるのを待って、最後に勅使の一行が参内し、橋殿上にて「社頭の儀」が執り行われます。儀式終了後、勅使一行は再び白砂の参道に戻り、御所舎にて、白砂参道でおこなわれる賀茂馬の疾走「走馬の儀」を御高覧後、主だった儀式は終りとなりました。
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by fushimi_no_occhan | 2009-05-16 17:02

有栖館特別公開 (烏丸下立売 平安女学院大学 有栖館 ) (2009年05月10日)

凡そ一ヶ月ほど前、4月8日の当ブログで、京都御苑の西、烏丸下立売の北西の角、老朽化で空家状態であった有栖川宮旧邸の一部が移築され、京都地方裁判所所長の官舎であったものを、下立売通を挟んだ南隣の平安女学院大学がこの物件を収得し屋敷を整備され、平安女学院有栖(アリス)館として復活、女子大生の教育の施設として再利用される旨ご案内していましたが、ちょうど向かいの京都御所の春季一般公開に合せて4月23日~29日の期間特別公開されていましたので、御所の参観のあと立ち寄りました。(少し古新聞になりますがご案内しておきます)
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木造瓦葺平屋建て、書院造の屋敷は中央の中庭を囲むように玄関棟、住居棟、客間棟の3棟で構成されています。いづれも強いて特長ある構造ではありませんが、客間棟の12畳ほどの広さの西側の客間には床の間と付書院を備えた2畳の「上段の間」が設えられていました。これなどが旧宮家の屋敷であった面影を残すものでしょう。隣の東側の客間の床は板張りで能が演舞できるようになっているとのことです。この2間の南縁側の庭園は作庭師11代目小川治兵衞の手で優美な日本庭園が復元されています。今後学園祭などの催しに合せて公開されることでしょう(入館料500円はちと高い!)。
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by fushimi_no_occhan | 2009-05-10 10:41

緑、緑、緑の糺の森 (下鴨 下鴨神社境内 新緑の糺の森 ) (2009年05月09日)

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新緑が一段と深みを増した下鴨神社境内「糺の森」、太古の昔から四季折々で姿を変えるこの原生林、今は緑、緑、緑一色で覆いつくされています。この森の一番美しい時期ではないでしょうか、葵祭(賀茂祭)の前儀はこの緑の下で行われていました。このとき撮った森のスナップです。
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by fushimi_no_occhan | 2009-05-09 11:10

戒壇めぐりと一初鑑賞会 (東山 得浄明院 ) (2009年05月08日)

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特別公開中の得浄明院に一初を見に行ってきました。東山の華頂山麓にある得浄明院は信州長野にある浄土宗七大本山の一つ善光寺大本願の京都別院として建立された山号を本覚山と号す尼寺です。このお寺さんは開山の善光寺大本願第117世誓圓尼(伏見宮邦家新皇第三王女)が1894(明治27)年に関西での善光寺参りの利便性を図るために善光寺の一光三尊阿弥陀如来の分身を迎え御本尊として創建されたお寺さんです。現在尼寺36ヶ所巡礼第10番札所になっています。境内には白天龍王、白女大明神を祀る白天社の祠があります。場所は東大路通バス停前の知恩院古門から東に延び、両側に塔頭寺院の家並みの続く知恩院華頂道の途中北側、華頂短大と華頂高校に挟まれた路地の奥にあります。
お寺さん境内では一面に栽培されている、文目類の中で一番早くから咲き出す一初の鑑賞会がこの時期毎年行われています。一初(文目科)は野生種の著莪(シャガ 文目科)を観賞用に改良された品種だそうですが、一方ヨーロッパで品種改良が加えられた一つがジャーマンアイリスです。花菖蒲に似た大形の派手な色とりどりの花を咲かせます。境内では同時に咲き誇っていました。また一初は水辺ではなく乾いた土に生えるのが特徴で、かつては茅葺屋根の棟に植え屋根を締めつける効果があるといわれ風水害から守る厄除けにも栽培されていました。
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by fushimi_no_occhan | 2009-05-08 10:35