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幕末の京都、龍馬縁の地を訪ねて (2010年04月26日)

土佐藩邸跡 (中京区木屋町通蛸薬師西南角)
江戸時代初期から1871(明治4)年まで土佐藩主山内家の藩邸の京屋敷があった所。土佐勤王党武市瑞山(武市半平太)らが活躍した拠点。
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武市瑞山(武市半平太(月形半平太))寓居之跡 (中京区木屋町通三条上る東側)
土佐藩下士武市瑞山(武市半平太)、土佐勤王党を結成、尊王攘夷を主導。1862(文久2)年上洛、京都留守居役となる。この頃の京都滞在時の宅跡を示す碑。
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坂本龍馬寓居之跡(材木商 酢屋) (中京区河原町通三条下ル1筋目東入北側)
京都の老舗材木商。龍馬が結社した海援隊の京都本部はこの二階こ置かれていた。
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伏見寺田屋殉難九烈士之碑、坂本龍馬襲撃之地(旅籠寺田屋) (伏見区南浜町)
江戸末期からの伏見港の船宿寺田屋。薩摩藩士の定宿となっていた。1862(文久2)年4月、維新の先駈けとなった尊王攘夷の薩摩藩倒幕急進派誠忠組らがここ寺田屋で決起談合中、これを中止させようとする在京中の公武合体推進論者であった薩摩藩主島津久光公が急派した藩の鎮撫使とで同士討ちの戦闘が発生、世にいう「寺田屋騒動」。その時、上意討や、切腹した有馬新七ら9名が死亡、これを「薩摩九烈士」とし、寺田屋玄関脇のその標石がある(墓はこれより北へ1.5kmほどにある大黒寺にある)。そして4年後、1866(慶応2)年1月、薩長同盟を締結した坂本龍馬が、長州藩三吉慎蔵と寺田屋二階の部屋で飲食中、’龍馬はん、はよう逃げとうくれやす!’入浴中の宿娘お龍(後に龍馬の妻)が、何やら外が騒がしいのに気づき、風呂場の格子から外を見ると、宿の周囲は伏見奉行所の幕府捕方が包囲している、咄嗟の機転で、裸同然で階段を駆け上り、止宿中の龍馬に危機を知らせた有名な史実の残る、坂本龍馬が定宿としていた船宿。
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坂本龍馬 避難の材木小屋跡 (伏見区過書町大手橋西詰北側)
寺田屋二階に上がってきた捕り方と乱闘、龍馬はピストルを発射。三吉は槍にて応戦するも、龍馬は両手首を切られる重傷を負う。三吉はその龍馬を肩に掛け、寺田屋の裏口から脱出、隣家を通りぬけ逃走、濠川西浜の材木小屋忍び込み、龍馬をその小屋にねかせる。三吉はそこから北へ二丁ほどの濠川沿いの伏見薩摩藩邸に駆け込み事の急を知らせ救援を要請した。龍馬が潜んだとされる西浜の材木小屋は濠川の左岸南方にあったといわれている。
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薩摩島津伏見屋敷跡(坂本龍馬 寺田屋脱出後 避難之跡) (伏見区東境町 現在:松山酒造工場)
龍馬が襲撃されたことは、薩摩藩邸へはすでにお龍が知らせていた。藩邸の留守居役の大山彦八は薩摩藩の旗印を掲げた船を出して龍馬の救助に成功。龍馬はこの伏見薩摩藩邸で西郷吉之助が差し向けた医者の手当てとお龍の介護を受け、1月29日まで伏見薩摩藩邸に滞在している。その後に西郷隆盛らとともに薩摩藩の蒸気船三邦丸に乗船し鹿児島へ、傷の治療をのため霧島温泉に投宿。これが、後に日本で最初の新婚旅行とされている。
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佐久間象山先生、大村益次郎遭難之碑(中京区木屋町通三条角中島町)
信州松代藩士佐久間象山は西洋科学の積極導入で日本の殖産興国を主導、開国論者。1864(元治1)年に上洛し、公武合体に奔走するも1864(元治1)年7月11日にこの地で刺客により斬殺。長州藩士大村益次郎は医学者であり兵学者でもある。長州藩の軍事指導者、その功績から維新後、兵部大輔に任命、近代兵制樹立に尽力する一方廃刀論を唱えることで旧士族の反感を買い、1869(明治2)年にこの地付近で反対派士族の襲撃にあい、同年敗血症で死去。
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坂本龍馬、中岡慎太郎遭難之地(近江屋跡) (中京区河原町通蛸薬師下ル塩屋町)
1867(慶応3)年11月15日、幕府見廻組により、近江屋の2階で談笑中の坂本龍馬(海援隊)と中岡慎太郎(陸援隊)が暗殺される。
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坂本龍馬、中岡慎太郎先生像(東山区円山公園内)
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桂小五郎像(長州藩邸跡) (中京区河原町通御池通上ル一之舟入町 現在:京都ホテルオークラ)
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料理旅館 幾松(桂小五郎寓居跡) (中京区木屋町通御池上ル上樵木町)
長州藩士桂小五郎とその愛人幾松(上京区三本木の芸妓)が共に住んでいた住居跡。小五郎は住居を長州藩邸から藩邸にほど近いこの地に寄宿、幾松と同棲。ここは、藩邸とは高瀬川と木屋町通を挟んですぐ向かい側に位置する。この幾松には、新選組、幕府捕り方に踏み込まれたときのための防備として、釣り天井、抜け床の間や鴨川への抜け道穴、などがあり現在も残っているとか。
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勝海舟の宿坊(常林寺) (左京区田中下柳町)
高野川と賀茂川の合流点左岸、出町付近の砂川の三軒寺の一つ、浄土宗の寺。幕末の頃、勝海舟が宿坊として利用していたといわれている。
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by fushimi_no_occhan | 2010-04-26 23:25


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