この付近 近藤勇遭難の地 (伏見 老舗料亭清和荘 玄関前の碑 ) (2010年03月19日)

最近、伏見の旧市街地の北端になる西墨染通(伏見区深草越後屋敷町)にある老舗料亭で伏見の名水「清和の井」のある清和荘さんの玄関門の右脇に、新たに新撰組局長近藤勇の遭難の地であることを示す碑が設置されています。
ご承知のように、この界隈は、江戸時代、当時日本の都市で最も活力のあった伏見の町の北部の墨染界隈で街道の宿場町として賑わっていたといわれている土地です。この地は京都への主要街道である伏見街道、山科を経由して東国へ下る大津街道や小倉山の峠を越えて六地蔵、宇治方面向かう街道の分岐点として重要な拠点でありました。古くは山科の小野小町(隋心院)へ百夜の通いをした深草少将の邸宅があったところと云われているほか、元禄時代には、御存知、忠臣蔵の主人公大石内蔵助良雄が山科隠棲時、夜な夜な通った遊郭(撞木町遊郭)もありました。また西国の大名諸侯の参勤交代時、大坂から澱川を上り、伏見港へ上陸した大名行列は、当時朝廷のある京都市内を通過することがご法度とされ、この墨染から藤森神社の南門前を経由し、山科へ向うことが定められていたなど重要な地点でした。そして幕末、1867(慶応3)年12月18日、この頃は塩小路の不動堂屯所から伏見奉行所に本陣を移していた新選組の局長近藤勇が京都町奉行所との軍議で二条城からの帰路、新撰組分派伊藤甲子太郎(土方歳三ら隊士により殺害:油小路事件)率いる御陵衛士の残党によって銃で狙撃され重傷を負った地でもあります。その現場は特に確定はされていないようですが、伏見街道と墨染通の交差点(現在の京阪本線墨染駅東側、本町通との交差点)付近であったのではないかと聞いていました。しかしそれと現在新しく設置された「この付近 近藤勇遭難の地」の碑の場所が離れすぎているように思えます(伏見奉行所へはこの場所は通らない)。ここを訪れた方たちは清和荘さんがその現場であったような印象を与えかねません。
c0119555_23331588.jpg
c0119555_23333069.jpg

[PR]
by fushimi_no_occhan | 2010-03-19 10:31


<< 春の観音加持青龍会 (東山 清... 花街も春開演!! (某私鉄沿線... >>