新撰組縁の地 太鼓楼 (堀川花屋町 西本願寺 ) (2009年09月10日)

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昨日の飛雲閣とはちょうど反対側の本願寺境内北東の角、築地塀が途切れた所に、重層構造の少し重々しく見える楼閣があります。これは日々時を報せたり、本願寺の法要、行事の合図に使用される大太鼓を備える1760(宝暦10)年頃建造の重層の楼閣「太鼓楼」です。
時は幕末、本願寺さんは門信徒さんが大勢いた長州とは親しい関係があり、上洛する長州藩士達を支援していた経緯があります。また朝廷とも深い縁があったことから、寺は勤王派が多くを占めるお寺さんであったようです。一方、京都守護職、会津藩藩主松平容保配下で京の治安、朝廷の警護を司る近藤勇率いる新選組は池田屋騒動以降、その存在が京の街の内外で大きく認められるようになり、入隊志願者が増え、本拠地としていた壬生の屯所(八木邸 現存しています)が手狭になり、1865(元治2)年3月に壬生からここ本願寺へと進駐、境内北東側の「北集会所」という大講堂と、「太鼓楼」を接収し新たな屯所とし、「新選組本陣」の看板を掲げます。このことは長州や勤王派の動きを探索、牽制するという重要な機能も果たすことになります。新たな屯所となった本願寺の境内では、日々隊士たちの鍛錬の場となり、あるときは銃砲の射撃訓練などを行っていたようで(長州側への見せびらかしの目的もあったようです)、これには仏門の本願寺にとっていよいよ悩みの種となり、堪りかねた本願寺は、寺から数百メートル南へ下った不動堂村(現:リーガロイヤルホテル京都付近、ホテル玄関前、堀川通に面した生垣にその標石と近藤勇の碑文があります)に新たな屯所の建築費用を本願寺が賄い、大名屋敷のような屯所が造営され、1867(慶応3)年にここへお移りいただいた(追い出した)という経緯です。しかし新撰組は、時の徳川幕府末期の混乱の中、僅か半年でここを離れ、さらに南の伏見奉行所へと移っていきます。
現在、本願寺さんには、太鼓楼のみ現存しています。本陣としていた北集会所は1873(明治6)年に解体され、その一部は姫路市の亀山本徳寺本堂に移築されています。
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また元隊士の消息として、新選組二番隊伍長島田魁(1828-1900)は明治維新、新政府による謹慎処置が解かれた後、1886(明治19)年京に戻り、本願寺の夜間警備員として就職、維新の動乱で散った近藤勇、土方歳三(箱館戦争で戦死)ほか新選組隊士達の菩提を弔い終生念仏三昧のなか太鼓番をして余生を送ったとか。享年73歳。
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by fushimi_no_occhan | 2009-09-10 10:27


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