平成の大修復完了の御影堂 (堀川花屋町 西本願寺 ) (2009年09月08日)

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京都駅前に並ぶ二つの大寺、東西両本願寺は、来る2011(平成23)年の宗祖親鸞聖人(1173-1263)の750回大遠忌への特別記念事業として聖人を祀る世界最大級の木造建築物である御影堂に対し平成の大修復工事が行われていますが、西本願寺の御影堂(重文)が一足早く2008(平成20)年12月に50数億円の費用とおよそ10年間の工期を費やし工事が完了、御影堂を覆っていた修復工事用の仮設大屋根が撤去されました。その後も堂内の総金箔張りの親鸞聖人像を安置する須弥壇、その内陣や外陣、御影堂門、阿弥陀堂門等の修復工事が行われてきましたが、2009(平成21)年3月末をもって全ての修復工事が完了し、京都の空に再び黒銀色の優美な瓦葺きの大屋根がその容姿を取り戻し、また美しく蘇った堂内は’来るものは拒まぬ’という親鸞の教えどおり一般開放になりました。京都はやはりこの大屋根がないと京都らしくありません。この平成の大修復から戻った御影堂と隣の阿弥陀堂の二堂が直列に並ぶ様はまさに圧巻で、世界に誇る木造建築と言えるでしょう。1994(平成6)年に古都京都の文化財の一部としてUNESCO世界文化遺産に登録されています。
さて、西本願寺さん(愛称:「お西さん」)、下京区堀川通花屋町下ル本願寺門前町にある、言わずと知れた浄土真宗本願寺派本山のお寺さんです。正式には龍谷山と号す本願寺です(浄土真宗系オリジナル寺院。江戸期に家康によって、東側にも本願寺寺領が与えられ、1602(慶長7)年に新たな本願寺が創建された際に、これを東本願寺(正式名称:真宗本廟 開基は教如上人)と称したため、これと区別する通称寺院名として西本願寺と呼ばれています)。2011(平成23)年4月には修復完了の御影堂にて宗祖親鸞聖人750回大遠忌法要が始まる予定です。
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御縁起は、宗祖親鸞聖人が越後への流罪のあと、常陸国をはじめ関東一円で教化活動をされたのち京都に戻られ、1263(弘長2)年90歳で入滅されています。末娘の覚信尼が1272(文永9)年に現在の東山区林下町(知恩院の塔頭寺院崇泰院付近)に大谷廟堂を造営、聖人の遺骨を安置したのが本願寺の発祥とされています。しかしその後、寺基は比叡山の弾圧による移転に始まり、1532(天文1)年の山科本願寺での日蓮衆徒の焼き打ち、さらに天下取りを目論む信長との間でいわゆる石山戦争(大坂石山御坊)が勃発、1580(天正8)年信長との和議の成立後も、各地を転々とし、1591(天正19)年になってようやく太閤秀吉により現在地に寺地の寄進を受け、寺基を構えることになります。そして1592(文禄1)年阿弥陀堂、御影堂の両堂が完成しています。1596(慶長1)年に伏見大地震で御影堂をはじめ諸堂が倒壊、翌年に御影堂が再建されたものの、1617(元和3)年に今度は失火により阿弥陀堂、御影堂の両堂や対面所などが焼失しています。翌年には阿弥陀堂を再建(仮堂)し、その後1636(寛永13)年に本格的な御影堂が再建されます。また対面所(国宝)及び白書院(国宝)、黒書院(国宝)や飛雲閣(国宝)(以上非公開)、唐門(国宝、伏見城遺構)などの現存する桃山文化の代表的な遺構と云われている多くの(国宝)、(重文)級の建造物、史跡に指定されている庭園等はこの時期に整備されています。さらに1760(宝暦10)年に現在の阿弥陀堂(重文)が再建され、本願寺の偉容が形造られました。
一方廟堂は江戸初期に東山五条坂西大谷(清水寺と国道1号線五条坂バイパスに挟まれた地区)に移り現在の「大谷本廟」となります。
幕末期には京都守護職、会津藩藩主松平容保配下で京都の治安、朝廷の警護を司る局長近藤勇率いる新選組の屯所として境内北東角の太鼓楼があてがわれ、境内は隊士の鍛錬場となっていたと伝わります。しかし、隊士の境内での振る舞いが、仏門の本願寺にとっていよいよ悩みの種となり、ついには、本願寺から数百メートル南へ下った不動堂村(現:リーガロイヤルホテル京都付近、ホテル玄関、堀川通に面した生垣にその標石と近藤勇の碑文があります)に新たな屯所の建築費用を本願寺が賄い、大名屋敷のような屯所が造営され、1867(慶応3)年にここへお移りいただいた(追い出した)という経緯もあります。しかし新撰組は、時の徳川幕府末期の混乱の中、僅か半年でここを離れ、さらに南の伏見奉行所へと移っていきます。
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by fushimi_no_occhan | 2009-09-08 12:17


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