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三栖閘門 (河川港の伏見港を支えた近代日本の産業遺構 ) (2009年05月30日)

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伏見の街、中書島界隈は、桃山期には太閤秀吉が指月城(初代伏見城)の築城とともに、太閤堤と呼ばれる土木事業や小椋池干拓事業など宇治川の治水事業を精力的に行う一方、宇治川と伏見城の外濠とされる濠川(ほりかわ)とを接続させることにより、ここに全国的にも珍しい内陸の河川港が出現しました。そして伏見-大阪間に水運路が確保され有名な三十石船などが淀川の航路を行き来し、人の往来、物流が活発になり、伏見の町が興隆し、とりわけ中書島界隈は賑わいをみせていました。
江戸期には京都の豪商角倉了以父子らによる高瀬川の開削により、水運路が伏見から京都の中心部へと拡大、利便性が一段と向上していきます。伏見の街は、秀吉から家康の時期まで幕府の政治、軍事戦略的中心の城下町から、徳川家光による伏見城廃城後の衰退期を経て、物流の拠点、経済の中心地として再び蘇り、幕府の遠国奉行所(伏見奉行所)、伝馬所や、銀座など我国初の金融拠点も拡充し、さらに西国大名たちの参勤交代の時、立ち寄る本陣や藩屋敷も置かれ、秀吉時代にも増して充実した街が形成していきました。幕末期には西郷吉之助、坂本龍馬ら勤皇の志士たちや近藤勇の新撰組らが活躍した、近代日本の夜明けとなった街であることはすでにご承知のことです。
明治期に入り開削された琵琶湖疏水が伏見地区は濠川と接続、琵琶湖(大津)から京都市内、伏見を経由し大阪まで2ヶ所のインクラインを介して運河が完成し、三十石船などによる物流が活発になっていきます。その後疎水を利用した水力発電の電力で1895年(明治28)年日本初のチンチン電車、京都電気鉄道(後の京都市電)が伏見港(伏見下油掛(京橋))-京都市内(東洞院塩小路)間で開通、さらに1910(明治43)年には京阪本線(大阪天満橋-京都清水五条間)の開通により、人の往来は水上交通から陸上交通へシフト。舟による人の通行は衰退していきますが、物流については、輸送量、コストの面から依然として水運に頼らざるを得ず、活発に行われていました。
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その後、宇治川の堤防の整備や上流の大峯ダム(天瀬ダムの前身)の建設などにより宇治川の水位が変化し濠川とで水位差が生じ、舟の運航が不可能になるため、1929(昭和4)年に三栖閘門が建設されました。2ヶ所の閘門ゲート間の水位を調節し、異なった水位の濠川と宇治川を連続させて船を通す施設でパナマ運河と同じ原理です。開業当時は年間2万隻の貨物舟の往来があったそうです。その後、鉄道網の拡充や道路輸送の発達と相まって水運は衰退の一方を辿り、ついには通行舟ゼロとなり、設備も放置状態が続きました(昭和30年代の前半、オッチャンがまだガキのころ、水門が開け閉めされて一隻の和舟が閘門を通過していく様をボケーと見ていた記憶があります)。1967(昭和42)年に廃港が決定し、都市計画により跡地は埋立て市民公園「伏見港公園」となりました。放置状態で老朽化していた閘門施設は「舟運の歴史を後世に継承する意味で重要な建造物」として、2000(平成12)年国交省近畿地方整備局によリ復元,再整備され、現在伏見のランドマークの一つとなり、近代日本の産業遺構として国の登録有形文化財に指定、長く保存されることになりました。(なお、伏見港は公園になったことで実体はありませんが、法律上は現在も地方港湾としての港格は抹消されていないそうです)。現在、濠川から三栖閘門は観光船伏見十石舟が季節限定で運行しています。
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by fushimi_no_occhan | 2009-05-30 15:02


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